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宣教題「主は私の羊飼い」          聖書  詩篇23篇1節~6節

教会学校合同礼拝説教要旨 2016年7月10日  宣教 福田勝敏牧師
 
今日は、教会学校のお友だち、中学生、高校生の方と、いつもこの時間に礼拝を捧げておられる皆さんと一緒の礼拝になっています。羽ノ浦キリスト教会では1年に2回、このような礼拝をしています。
 今日も、教会学校のお友だちが元気に讃美歌を歌い、み言葉を暗唱する姿に大人の方々も励まされることでしょう。聖書の箇所は、いつもの流れから離れて、有名な詩篇23篇です。
 この詩篇は、イスラエルの第2代目の王様で、神様に選ばれたダビデが詠んだ詩篇です。サウルという第1代目の王様に、王様の地位を狙っていると誤解されて、迫害され、殺されそうになった時に詠んだのか、年齢が進んで、王様の地位を息子のソロモンに譲ることを考えるようになったころに詠んだのかはっきりしませんが、ダビデが信じている神様、私たちが信じている神様は、いつも愛する者たちを守ってくださるお方だということをきれいな詩であらわしています。

1、祝福を与える羊飼い
 イスラエルの国には昔から羊を飼う仕事をする人がいました。現代も遊牧民族と言われる、羊の皮のテントに住んで、羊の食べる草を捜して移動しながら生活をしている人が多くおられます。
 羊は自分で草を捜すことができませんが、羊飼いが、羊に必要な草や水を捜してそこに連れて行ってくれるのです。このように神様を信じて従う者に必要なものを与え、祝福に導いてくださいます。

2、羊を守る羊飼い
 ダビデも、子どもの頃は羊飼いの少年でしたが、羊の群れを飼っている時に熊やライオンが羊を襲うことがあったようです。そんな時、ダビデは熊やライオンから羊を守ったと言っています(Ⅰサム17:34~35)。このように、本当の羊飼いは、いのちをかけて羊を守るのです。さらに、イエス様は「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハ10:11)と言われました。そして、やがて十字架にかかって「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と言って私たちの罪の身代わりに命を捨ててくださいました。
 イエス様は、本当に神の羊である私たちのために命を捨ててくださったのです。そして3日目によみがえって、信じる者の罪を赦し、永遠の命を与えてくださいました。

3、祝福される羊飼い
 本当の羊飼いは、羊の祝福を考えてくださいます。神様は、私たちがサタンに囲まれているようなときにも守ってくださるのです。そして、神様を信じる者は神さまといつも一緒にいることのできる祝福を与えられるのです。
 「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と言っているように、神様はわたしたちを追いかけてでも祝福を与えてくださるのです。
 迷い子になった羊を捜して見つけ出してくれた羊飼いのように私たちをいつも探して、滅びから救い、祝福を与えようとしてくださっています。

礼拝説教要旨  2016年 7月 3日 宣教 福田勝敏牧師

礼拝説教要旨  2016年 7月 3日 宣教 福田勝敏牧師

 使徒の働き22章で、ダマスコにいるクリスチャンを迫害するために出かけたパウロが、ダマスコ近郊で復活のキリストに出会って、新しく生まれ変わらされたことを証ししましたが、ここでもアグリッパ王の前で同じあかしをしています。そしてここにパウロの狂気的熱心とも言われる思いが語られています。パウロの篤い思いとはなんでしょう。
1、事実の力
 それは、事実に基づくものでした。パウロは、自分の救いの体験を何度も語っています。大迫害者であったパウロが主に捕えられ、罪を赦されただけでなく、キリストに召し出されて、伝道者の使命を与えられ、キリストを宣べ伝え、キリスト教のパウロか、パウロのキリスト教かと言われるほどに、キリスト教の理論武装とも言うべき教理を書き残す人になったのです。何がそこまで彼を作り変えたのでしょう。だれかの教えによったのでもなければ、だれかに説得されたわけでもありませんでした。彼がダマスコ郊外で復活のキリストに出会ったという事実が彼を見事に変えたのです。
 私たちも、それぞれ救いのあかしがあるはずです。かつては罪に捕らわれて、悪魔の支配下に置かれ、暗黒の中を歩んでいたものがイエス・キリストに出会い、十字架と復活を信じて罪ゆるされ、滅びから救いに、死からいのちに生かされたはずです。
 このひとりひとりの体験はだれも真似ることはできませんし、真似る必要もありません。ただ神が私たち一人一人に与えられた特権なのです。パウロのように、私たちも与えられたあかしを何度でも思い返し、何度でもあかしをしたいものです。
2、神に願うこと
 パウロはこのあかしを何度も何度も繰り返しています。彼にはこのあかしを通して、多くの人々が自分のようにクリスチャンになってほしいとの願いがあったのです。彼はアグリッパ王に対して「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」と語っています。ここにユダヤの王の前に裁かれている囚人の卑屈さなどはありません。むしろ、王に対して自分のあかしを通して、伝道しているのです。
 今日ここに集っているお互いも、イエス・キリストを信じて喜びと感謝の生活を送っておられると思いますが、その喜びを知らない人々にあかしすることで、ひとりでも多くの方々が、キリストの十字架と復活の力によって、霊の目を開かれ、罪を悔い改めてゆるされ、暗黒から光に移され、サタンに捕らわれている人が解放されて神の恵みの中に移され、罪の赦しと聖潔の恵みを受けて、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と言える、天国の市民としていただける方々が起こされることを神に願う者にしていただきましょう。
3、謙虚な心と大胆な心
 パウロは自分のあかしをした後に、アグリッパ王に対して単刀直入に「あなたは預言者を信じておられますか」と迫っています。この時のアグリッパ王は戸惑いをもって「あなたは、わずかなことばで、わたしをキリスト者にしようとしている」文語訳聖書の前の元訳聖書では、預言者を「預言者の書(ふみ)」と訳してています。また、「わずかなことばで」は「容易(たやすく)」となっています。私たちは、常に聞く方々を謙虚な気持ちで愛すると共に、時には大胆に救いの福音をお伝えしたいものです。

礼拝説教要旨  2016年 6月26日   宣教 福田勝敏牧師

宣教題「御霊の賜物」         聖書 使徒の働き25章1節~12節
 
使徒パウロはエルサレムのユダヤ人たちによって訴えられ、無実にもかかわらず、満2年もの投獄生活を強いられました。
 当時の総督ペリクスがユダヤ人にもいい顔をし、パウロからはわいろをとろうとした結果のことですが、ペリクスの後任としてフェストがユダヤの総督としてローマから派遣されてきました。
パウロはこのフェストとユダヤ人でありユダヤの王としての座にあったアグリッパ王の前に証しをすることになります。
 このアグリッパは、キリスト降誕の時代に2歳以下の男子を殺したヘロデ大王の曾孫に当たる人です。

1、神のご計画
 新総督フェストは、先の総督と同様に、パウロに罪を見出すことができないのも関わらず、ユダヤ人の歓心を買うために、パウロにエルサレムでの裁判を勧めますが、パウロはカイザㇽ(ローマのネロ皇帝のこと)に上訴しました。
 フェストは、これで面倒なパウロの裁判から離れることができると思ったのですが、これは神がパウロをローマに遣わされるご計画の中にあったのです。この25章、26節は物事が何も進んでいないかのように見えますが、実は神様の見えない御手が確実に働かれていたのです。
 私たちの歩みの中でも、神に祈り、神に依り頼んではいるけれど物事が何も進んでいないように見えて不安になることがあります。しかし、神に依り頼んでいる時に、神は見えないところで確かに働いていてくださると信じることができるのです。

2、あかしの機会
 肩の荷を下ろせたと思ったフェストでしたが、彼に困ったことがありました。それはカイザルに書き送るべき訴状に書くべきことがないからでした。そのような時、ユダヤの王であるアグリッパ王がパウロに関心を示して面会をすることになりました。フェストは、アグリッパが訴状に書けるようなことを聞きだしてくれるだろうと期待したのです。
 しかし、このことはパウロにとって絶好の機会となりました。それは、アグリッパ王やカイザリヤの人々に信仰のあかしをするチャンスが与えられたからです。そして、この流れは確実にパウロが願い、神が「あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」(使23:⒒)と語られたことの実現に向けての前進となりました。

3、パウロの真の願い
パウロはローマで果たすべき目標を持っていました。それは、「私があなたがたに合いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」(ロマ1:⒒)と、かつてローマ教会に宛ててコリントから書いたロマ人への手紙にあるように、パウロの願いは変わらずに熱く燃えるようにあったのです。
 現代の私たちも、聖書はもちろん、信仰書を通し、また、牧師や様々な聖会などで多くの教師からの宣教を通し、先輩信徒のあかしを通して、信仰について学ぶと共に、御霊の賜物をいただくことを求めることが大切です。

礼拝説教要旨  2016年 6月19日   宣教 福田勝敏牧師

宣教題「神の御前の最善」      聖書 使徒の働き24章10節~21節

 牧師の発病以来、宣教要旨の公開をストップしていましたが、ここに復活することとして、先週の分から復活しました。今後、礼拝宣教を読んでご意見などありましたらお教えください。長らく、お休みしてすみません。今後よろしくお願いします。
  羽ノ浦キリスト教会 牧師 福田勝敏

 騎兵たちに、暗殺集団から守られてカイザリヤに護送されたパウロはローマの総督ペリクスのもとで裁判を受けることになりました。
1、大祭司の訴え
この総督の妻はユダヤ人であり、総督ペリクスも当時のキリスト教について詳しい人だったようです。
 ユダヤの大祭司アナニヤがパウロを訴えるためにカイザリヤにやって来ましたが、この裁判のためにテルトロという弁護士を同行して、弁護士が大祭司の代わりに話し始めました。大祭司たちはパウロを訴える確かな証拠を持たないために、雄弁なテルトロを同行したのでしょう。
テルトロは、パウロのことを「ペストのような存在」「疫病のような存在」だというのです。このような訴えはローマの法律には関係のないものですから、総督ペリクスはパウロの言い分を聞いた上で裁判を延期してしまいました。パウロを「ペストのような存在」と言ったことは、パウロの語るキリストの福音があまりにも早く多くの人々に受け入れられることに恐れを持ったからでしょう。当時の信徒たちは「世界中を騒がせてきた者たち」(17:6)とか、「ペストのような存在」とかと言われました。私は、自分自身を振り返り、キリストに反対する人々にとって、ペスト、疫病のような存在と思われるほどの影響力を持っているだろうかと思います。なんとおとなしく、何の影響力も持たない存在ではないかと迫られるのです。
2、正義と節制と審判
 ペリクスは、ユダヤ人の妻とともに、イエス・キリストのを信じる信仰についてパウロから聞きましたが、パウロが、「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとした」(テトス2:12,13)このようなメッセージを聞いたときに、ペリクスは恐れを感じたのです。
 私たちも、優しい神の愛のお話しはいいが、厳しいさばきの神のお話しは聞きたくないところがあります。ペリクスにはそのような生活、自分の立場を利用して私腹を肥やそうとする生活があったために恐れたのです。私たちの中にもそのような不敬虔、この世の欲があるなら、イエス・キリストの十字架の前に悔い改めて、神の御前に立つ思いで出るべきです。
3、神の御前に最善をを尽くす生活
 パウロが「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と言い切れたのは、復活を信じていたからだといえます。
 私たちも、やがて、復活のキリストと神の前に立つことになると信じているなら、もっと真剣に神の御前に最善の生活をすることでしょう。
 総督ペリクスは、パウロが無実であり、罪に値することは何もしていないと分かっていましたが、ユダヤ人の関心を買おうとしたことと、パウロからわいろをとろうと考えていたために、2年もの間「牢につないだままにしておいた」のです。
 私たちは常に神の御前に置かれている者としての歩みをしたいものです。

礼拝説教要旨  2016年 6月12日   宣教 福田勝敏牧師

宣教題「神の摂理」       聖書 使徒の働き23章1節~11節
 
パウロはいよいよ大群衆、しかも彼を殺そうとする暴徒の前に立って語り始めました。
1、きよい良心と神からの勇気
 パウロは「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました。」との言葉から始めました。聞きようによっては高慢に聞こえる言葉ですが、パウロにはそのように言える裏付けがあったのです。彼がキリストを信じる前は、大変な迫害者で、多くのクリスチャンたちを苦しめて来ました。しかし、それは神のご愛と十字架と復活を知らない無知の時代の出来事であり、本当に神に対して忠実でありたいとの願いからとっていた行動であったために、神は彼を赦し、彼を用いられ、パウロはこのようにかたることができたのです。私たちの周囲にも神を知らないけれど、まじめで真実な歩みをしようとしておられる方々は多くおられることを見せられます。このような方々が、パウロのように本当の神の救いを知らされたら、どんなにかすばらしいことでしょう。
 次にパウロは、パリサイ人とサドカイ人の教理的な違いをついて、「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」と語ったため、両派の人々の間に論争が起こり、パウロは再度混乱に巻き込まれましたが、千人隊長によって守られ、安全な兵営に入れられました。
 その夜、パウロは神の励ましをいただきました。「勇気を出しなさ」と語りかけられ、ローマに連行されることが神の摂理であることを確信づけられたのです。
2、パウロ殺害計画の陰謀と発覚
 パウロを殺そうとする人たちは、正常な裁判では罰することが困難だと気付き、陰謀を企てました。それは、千人隊長にもう一度取り調べの機会を求め、パウロが兵営から裁判の場にまで連行される時を見計らって、40人ほどで徒党を組んで殺そうというのです。
3、神の摂理
 しかし、それがパウロの甥の知るところとなって千人隊長に伝わり、夜のうちにカイザリヤにいる総督ペリクスのところに送り出されました。
 パウロは、「エルサレムで死ぬことさえも覚悟しています」(21:13)と言っていましたが、主から「ローマでもあかしをしなければならない」と言われ、その道がこのような形で開かれてきたのです。「人は使命のある間は命を失うことはない。神のご用のある間は、指一本触れることも許されない」と言われた昔の聖都がおられます。パウロはこの時、神の摂理と保護を信じて前進して行きました。私たちも常に神のみこころを求めて、神の摂理と保護を信じて歩ませていただきたいものです。先日の祈祷会である姉妹が「現実をとおして神を見るのではなく、神をとおして現実を見なさい。と教えられました」とあかしをしてくださいました。パウロはまさにそうした見方で神の摂理を教えられ、信仰をもって進んだのです。
そして、カイザリヤで約2年間の軟禁状態に置かれましたが、神はパウロを、世界最大の異邦人の町、ローマでの宣教のご用のために様々な困難に合わせられました。しかし、その都度助け、守り、導かれました。
 神を見上げて生活する時、私たちが困難と思える生活をしている時でも、その歩みを導いておられることを実感することができ、感謝のうちに信仰生活を送ることができるのです。
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