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母の日礼拝宣教要旨  2015年5月10日(日)   福田勝敏牧師

主題「よみがえりの奇跡」 聖書:ヨハネ11章1節~45節
 
今日は母の日です。この日は神が直接、この日を母の日としなさいと言われてできた日ではありません。しかし、モーセの十戒の第5戒として定められた戒めが「あなたの父と母を敬え」で、第4戒までが人と神との関係の戒めであるのに対して、第5戒から10戒までは、人対人の関係の第1戒が「父と母を敬え」であることから始まったと言っても良い記念日です。アメリカフィラデルフィアのアンナジャービスが1907年に自分のお母さんに感謝をこめて記念会に白いカーネーションを来会者に配ったことから始まりました。1914年に当時のウイルソン大統領が提唱して、母の日を国民の祝日として世界中に広まりました。日本では大正時代に教会で行われたようですが、一般に広がったのは第二次世界大戦後でした。
さて、イエスがエルサレムで盲人の目を開く奇跡を行われた時も、ユダヤ人たちはイエスを信じませんでした。そして、イエスが「わたしと父は一つです」(10:30)と言われたことで、イエスを石で打ち殺そうとしました。しかし、ヨルダン川の東の地方ではイエスのお話しを聞いて信じる人たちが起こされました。
 そのような時、ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの3姉弟の住むベタニヤに行かれました。四福音書を見るとイエスはベタニヤに四回行って、すばらしい学びを残してくださっています。
 イエスの十字架につけられた原因が、信じる者を死からよみがえらせ、永遠のいのちを与えると約束されたことにありました。そして、このベタニヤのラザロの復活の記事は、ユダヤ人たちのイエスに対する憎悪をさらに強くしました。
 四福音書には他にも2ケ所、イエスが死人を復活させられた記事があります。会堂管理者ヤイロの娘(マル5:22~43)、ナインの町のやもめの息子の復活(ルカ7:11~17)です。これらの出来事も、ラザロの復活の出来事もイエス・キリストの全能性を教える奇跡であると言えます。
 その中でも、ラザロの復活は「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4)と言われているように、イエスの全能の力を目の当たりに見せられるものです。

1、ラザロの死
 イエスは「この病気」「ラザロは眠っています」と言っておられましたが14節で、はっきりと「ラザロは死んだのです」と言われました。
 そして、ベタニヤに行かれましたが、姉のマルタ、マリヤの悲しみは大きいものでした。死んで4日も経っていて、すでに腐敗臭がするほどになっていましたから当然でしょう。
 それでも、マルタもマリヤも終わりの日のよみがえりは信じていましたし、イエスの御力も信じていました。しかし、文字通りの復活、肉体を持って現実の復活をすることは信じられませんでした。

2、石を取りのける
 ラザロの墓はほら穴になっていて入り口は大きな石でふさがれていました。イエスは、「その石を取りのけなさい」と言われたのです。
 これは、マルタ、マリヤや彼らの友人たちの不信仰の心を開けさせるためのお言葉でした。
 私たちも、様々な問題にぶつかる時、もうだめだと諦めてしまいやすいものです。しかしイエスは「石を取りのけなさい」と言われます。この墓の中には何があるでしょう。古い干からびた骨、腐った布、更に4日前に入れられた腐敗し始めたラザロの遺体です。決して、それを見たいと思うような麗しいものではありません。
 私たちの不信仰の石でふたをしている心の中も、汚れたもの、悪臭を放つようなものがあるのです。
 墓の石を取りのけるのを躊躇していたマルタにイエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言われると、マルタは遂に石を取りのけました。するとそこに見たものは、汚れでも、ラザロの遺体でもありません。神の栄光の現れであるラザロの復活した姿でした。

3、イエスの死への前進
 私たちは、「こんなことが自分たちの目の前で起こったらきっとイエスを信じるだろうに、この時のユダヤ人たちが信じないのは不思議だ。」と思うでしょう。
 しかし、当時の人々は信じる者もいましたが、信じないでイエスを殺そうとする時の権力者たちがいたのです。
 このことはイエスにとって当然の結果だったのです。つまり、イエスの目はしっかりとカルバリの山に向いていました。そして、そのカルバリで十字架につくことを目指しておられたのです。
 それは、わたしたちの閉ざされた心の中の罪、汚れを赦しきよめるための十字架につくためでした。さらに、三日目によみがえって、信じる者に永遠のいのちを与える為でした。
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