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礼拝宣教要旨    2015年 8月16日(日) 福田勝敏牧師

主題「主を見て喜んだ」   聖書:ヨハネ20:17~30
 
「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」(ヨハ19:41,42)と聖書は記しています。「備え日」とは、安息日に備えるための日の事です。「安息日は金曜日の夕方から、土曜日の夕方」と定められていましたから、主イエスが十字架からおろされた時刻は、安息日が近づいていたことになります。
 そして、記事は章の変わると同時に安息日を飛び越して、日曜日の記事になっています。

1、弟子たちの不信仰
 日曜日の朝早く主のお墓に来たのはマグダラのマリヤでした。彼女は、墓の石が取り除かれているのを見て、とっさに「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません」と、弟子のペテロとヨハネに報告しました。
 それを聞いたペテロとヨハネは、すぐに墓に走っていきましたが、主のからだのないのを見てマグダラのマリヤと同じ思いになって、他の弟子たちのいる家に帰っていきました。
 彼らは、主が共におられた時、「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」(マタ16:21 )と、主から直接教えられていましたが、彼らはそれを現実のこととしては信じることができていなかったのです。
 バックストン師は「マリヤの不信仰が主を取り去りました」と言っておられます。そして「私共も若し主を失いますならばそれはただ私共の不信仰によりてであります」とも言っておられます。主のよみがえりは、神のご計画の通りでした。墓が空になっているのを見て、だれかが取り去ったと思うのはこの神のご計画と、イエスのお言葉を信じられなかった不信仰がそのようにさせたように、主が私たちを見捨てられたように思えたり、孤独な自分を悲しんでいる時は、復活の主がいつもそばにいてくださることを信じられないでいる時なのです。

2、主を見て喜んだ
 そんなマグダラのマリヤは、弟子たちのだれよりも先に主にお目にかかる特権を得ました。弟子たちの帰った後も、墓に残って墓の中を覗き込んでいたとき、ふたりの御使いを見、復活の主にお目にかかったのです。そして弟子たちに「私は主にお目にかかりました」と伝えました。
 それでも半信半疑の弟子たちに、その日の夕方、ユダヤ人を恐れて戸を閉じている部屋にイエス自らが入って来られて、「平安があなたがたにあるように。(シャローム)」と語りかけてくださいました。そして、十字架の釘のあとと、わき腹の槍のあとを見せられました。その時「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。
 すると、もう一度「平安があなたがたにあるように。(シャローム)」と語ってくださいます。しかもここでは「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とも付け加えてくださいました。
 この十字架と復活の福音は、自分たちの喜び満足で終わってはいけないのです。主は私たちを、周囲の人々、この日本の同胞、世界の人々に伝える責任があることを語っておられます。

3、見ないで信じる幸い
 主が弟子たちにそのお姿を現された時、弟子のひとり、トマスはそこにいませんでした。
 彼が帰宅すると、弟子たちは彼に自分たちがイエスにお目にかかったことを語りましたが、トマスは信じられないで、「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と強く言い切りました。
 現代もこのように強く主の奇跡を否定する人が多くあります。しかし、主はそのような人を退けられません。トマスに対しては次の週、他の弟子たちと共にいる時にそのお姿を現してくださり、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言ってくださいました。その時、トマスは「私の主、私の神」と言って主を崇めました。すると主は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われました。
 私たちも、復活の主をこの目で見られたらどんなに幸いだろう。弟子たちはなんと幸いなんだろうと思います。しかし主は言われるのです「見ずに信じる者は幸いです。」と。そうです。見て信じることは当然でしょう。しかし見ずに信じることは大変難しいことです。
 それを、信じることができるとすれば、それは自分の目で復活の主を見る特権に与った弟子たちよりも幸いなことなのです。
 それで主は言われたのです「見ずに信じる者は幸いです」と。わたしたちはあのペテロやヨハネ、トマスよりも幸いな者とされているのです。
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