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礼拝宣教要旨  「備えるべきこと」   (2013年9月8日)

聖 書:イザヤ書22章12節~25節       宣教:福田勝敏牧師
 
私たちクリスチャンは謙遜であるべきだと教えられています。事実そのように生きようとしておられる方が多くおられます。
 しかし、よく注意をしていなければ、自分で気付かないうちにクリスチャン特有の傲慢に陥っていることも多くあります。それは「自分は神様を信じて救われた。しかしあの人たちはまだ神様を知らないノンクリスチャンだ。彼らは罪人なんだ。」と言った目で、自分を一段上に置いた立場で人々を見下げている場合があります。
 私たちは救われたから偉くなったのではありません。私たちは神の憐れみによって生かされている弱い者であり、罪を許された罪人にすぎないことを心にとどめておくべきです。

1、エルサレムの罪
 エルサレムの人々は、かつてのバビロンの人々がそうであったように、イザヤがエルサレムの裁きによる滅亡を預言しているにもかかわらず、彼らはそれを無視して踊り、歌い、飲んで騒いでいます。
 これは、「私たちは神に選ばれた選民だ。ここには神殿がある。ここは聖都だから滅ぼされることはない」と公言し、敬虔な生活をするのではなく、選民意識だけを持ちながら神を忘れ、安易に汚れた生活を繰り返していたのです。

2、弱さを知る
 私たちが聖書を読み、キリスト教会の歴史を見るとき、かならずしも神に救われた者が完璧な人に造られるのではなく、どこまでも弱さを持ち、足りなさを持ち、苦しみつつ神により頼み、神を信頼しつつ、神の憐れみの中で生かされている事実を認めつつ歩むことが大切なのです。
 パウロも「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」(ピリ3:12)と言っています。確かに、エルサレムは聖都です。しかし、神はそこに神殿があるから守られるのではありません。そこにいる人々が、神の前に神の民として神を畏れ、清い生き方をすることが大切なのです。
 毎日、罪を示されたら悔い改め、聖潔(きよめ)を求め、救われた神のしもべとして、神の前には救われた罪人であること以外に誇れるものがないことを自覚しましょう。

3、シェブナとエルヤキム
 シェブナという人は当時の成功者と言われた人です。しかし彼は心から神を礼拝しないばかりか、自分の知恵や才能を生かし、努力することで成功したと思いあがり、失脚させられました。そして神は、シェブナの後にエルヤキムを高官の座に着かせられました。それは、シェブナは自らの力を誇り、エルヤキムは神に心から信頼したのです。
 私たちも、常に自分の力や知恵を誇ることなく、主の前にへりくだり、主に信頼した歩みを続けたいものです。私たちが信仰生活で常に備えておくべきことは、いつどのような時にも、神により頼む心と信仰なのです。
 私たちが、罪ゆるされて、神の粉とされたのは万に一つも自分の努力や知恵ではありません。ただ、わたしのために十字架にかかってくださったイエス・キリストの十字架と、死んで葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、信じる者に永遠の命を与えてくださった神の恵みによる以外にありません。


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