Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

特別礼拝宣教要旨  2015年10月 4日(日)福田勝敏牧師

主題「神の国は近づいた」聖書:マルコの福音書1:14~15

 イエス・キリストは30歳まで、イスラエルの北部にあるガリラヤ地方のナザレという田舎町でお育ちになりました。
 そして、30歳になられて多くの人々に神様のことを伝える公の生涯に入られました。
3年半の公の生涯の終わりはあの十字架の死でした。しかし、普通であればそれでおしまいになるのですが、イエス・キリストはお墓に入れられて三日目によみがえり、今も信じる者とともに歩んで下さるのです。
 このイエス・キリストは公の生涯3年半に、実に多くの奇跡を行い、多くの教えを語られました。
 本日の、「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」もその一つですが、この教えは実に大切な内容を持っています。
1、神の国とは何か
 イエスが言われた「神の国」とは何でしょう。「神の国」がわたしたちが実際に生活している地上の国とは異質のものだろうということは何となくわかります。そこで多くの人は「神の国」とは理想上の国のことだろうと思います。病気がなく、貧しさがなく、悩みもなく、争い、戦争もない国を想像するのです。しかし、それがどんなに理想の国であっても人間が造り上げようとする国であれば、それは神の国ではなく、人間の空想の世界でしかありません。神の国とは、私たち人間の想像をはるかに超えた国であって、私たちには思いも及ばないのです。この国については聖書が明らかにしています。なぜなら、神の国の神は聖書の示す神だからです。
2、神が支配される国
 聖書は、なぜ「神の国」と呼ぶのでしょう。それは聖書の示す「神の国」は、私たちの住む地域、つまり、神の国とは国境があるような、地域ではありません。神の支配の及ぶところ、神が王権を行使されるところであると言っていいでしょう。
 経済、武力、権力、が力を持つ世界ではありません。十字架にかかれましたが、三日目によみがえって、天にお帰りになって、聖霊と呼ばれる、目には見えない神を信じる者に与えて、その心と思いを支配してくださるのです。この支配を受ける人々のいるところ、そこが神の国なのです。
3、近づいた神の国
 前述の神の国が近づくとはどのような状態を指すのでしょう。それは今一つの「神の国」を指しています。つまり、この地球も宇宙も滅ばされて
新しい天と地が造られると聖書は教えます。そこに入れていただけるのは、神の前に罪を悔い改めて、聖霊なる神の支配をいただく人たちです。
聖書は「悔い改めて、福音を信じる」ようにうながしておられます。
 わたしたちは、だれひとり罪のない者はいません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3:23)と聖書は語ります。しかし、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」という言葉が続いています。つまり、私たちの罪がゆるされるときに私たちは義とされて、天の神の国に入る特権が与えられるのです。
 また、神が現在私たちが住んでいる世界を滅ぼして、新しい天と地を創造される時、そこに入れていただくことができるのは、罪をゆるされて神の子とされた者です。世の終わりが迫り、新しい神の国が近づいているこの時、あなたも罪を悔い改めて、あなたのために十字架にかかってくださったイエス・キリストを信じましょう。

礼拝宣教要旨    2015年 9月27日(日)   福田勝敏牧師

主題「この方以外に救いはない」 聖書:使徒の働き4:1~12
 
ペンテコステに聖霊がおいでになって、弟子たちが聖霊に満たされると著しい聖霊の働きが弟子たちを通しておこなわれました。最初の働きは美しの門で物ごいをしていた足のなえた人の癒しでした。
 その出来事を通して、多くのユダヤ人たちがペテロの話しを聞くために彼らを取り囲んだのでした。そして熱心にペテロの話に耳を傾けました。
 ここに、初代教会の出発の姿を見ることができます。しかし、教会の前進はすぐに大きな困難に遭遇するのです。

1、最初の迫害
 エルサレムにいた多くの人々は、足のなえた人が、神の働きによって癒され、自由に歩き回ったり、跳ねたりしているのを見て、ペテロの話しに耳を傾けました。そして多くの人々が悔い改めて、信じる人々が男の数だけで5千人ほどになったと言われています。
 民の指導者、長老、学者たちはこの出来事の結果を見て驚き、弟子たちを捕えて、ペテロたちの働きをやめさせようとしました。
 彼らは、ユダヤ人の指導者、大祭司たちです。恐らく、彼らはガリラヤの田舎から出てきたペテロたちを見て、自分たちのような権力者が脅せば、すぐに黙るだろうと思っていたのですが、ペテロが、自分たちが取り調べを受けているのは、病の人をいやした良いわざによってであり、このことはイエス・キリストの名によってなされたことであることを、理路整然と語り「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と語たりました。

2、神に従う道
 指導者たちは、弟子たちが無学な普通の人であり、いやされた人が彼らといっしょにいるのを見ては、返す言葉がありませんでした。それでも「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた」のでした。これに対しても、ペテロは「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」と答えています。これに対しては、指導者たちは言葉がありませんでしたので、弟子たちをおどしたうえで釈放しました。
 ここに弟子たちの、常に神を最優先課題にすべきことが明快になっていることを見ることができます。
 わたしたちは、神に従う道を選んで歩いているでしょうか。それとも周囲の人々の評判を優先させた生き方をしているのでしょうか。

3、大胆な祈りと伝道
 弟子たちが捕えられて、おどされていたとき、弟子の仲間たちは心をひとつにして、神に向かって祈っていました。そして、ペテロとヨハネが帰ってきた後の教会でも熱心な祈りがささげられました。彼らの祈りの中心は「いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」です。使徒パウロも「どんな場合にも恥じることなく、いつものように大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20)と言っています。
 私たちもパウロに倣い「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリ1:21)と告白できる生き方をしたいものです。
 私のために、あなたのために十字架にいのちを捨ててくださったイエス・キリストに心から感謝し、大胆に伝える者としていただきましょう。

礼拝宣教要旨    2015年 9月20日(日)  福田勝敏牧師

主題「私にあるもの」     聖書:使徒の働き3:1~10
 
弟子たちは、主イエス・キリストの十字架とよみがえりの姿を見せられました。彼らは主イエス・キリストに直接出会い、メッセージを聞き、主イエスのなさる数々の奇跡を見ていました。しかし、彼らはそれだけでは出て行って福音を宣べ伝えることはできませんでした。
彼らが福音を伝え、主がなさったように奇跡をもって神様の栄光を現すことができるようになったのは、主イエスの約束通りに聖霊なる神がおいでになった時に聖霊に満たされ、その力をいただいた時からでした。
 聖霊がおいでくださったその日からキリスト教会が始まったのですが、誕生したばかりの教会は、目覚ましい成長をしました。クリスチャンとなった人々は、常に共に集まり、賛美し、聖餐をし、祈りをしていました。そして、全ての民に好意を持たれていたと聖書は語っています。さらに「使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた(使2:43)。」とありますが、本日の箇所はその一例が挙げられているのです。 

1、祈りのある所
 ペテロとヨハネが神殿に行ったのは、午後3時の祈りの時でした。当時のユダヤ人たちは、9時に朝の祈り、12時には昼の祈り、そして、午後3時には午後の祈りをささげていました。
 この当時の人々にとって、一日3回の祈りは当然のことでした。彼らにとっては強制でもなければ、ごく普通のことでした。
 私たちも、朝の祈り、夕の祈り、食事の祈りがごく当たり前、普通のことになればいいですね。神はこうした当たり前のごく普通の習慣の中にも働いてくださるのです。

2、御名の力
 この午後の祈りの時間にペテロたちが神殿に向かった時、神殿の東門から入ろうとしました。この門が別名「美しの門」と呼ばれる門でした。
 するとそこに一人の生まれつき足のなえた人が運ばれてきたのです。そして門のそばに置いてもらっていたと言われます。
 彼の周囲の人々も彼自身も、こうして、祈りのために人々が集まる時間に合わせて、施しを求めていたのです。
 そこにペテロたちが来たので、彼らに施しを求めました。すると、ペテロは「私たちを見なさい」と声をかけ、何かもらえると期待してペテロの方を見たこの人に対してペテロは「金銀は私にはない。」と言います。この人はがっかりしたでしょう。しかしペテロの続いて語った言葉はすばらしいものでした。「しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言ったのです。
 すると、生まれながら足のなえた人が歩き出したのです。すばらしい神様のみわざが現れました。「この人は40歳余りであった」使徒4章22節に記されています。
 ここに、「イエス・キリストの名によって」と言われています。ペテロにこの人をいやす力があったわけではありません。
 ペテロがイエス・キリストの名には人をいやす力があると信じていたから言うことができた言葉です。また、この足のなえていた人もペテロの言葉を信じたから立ち上がったのです。ここに祈りがあり、信仰があってこそなされた奇跡であるとも言うことができます。

3、与えられる信仰
 エルサレムにいた多くの人々は、ペテロやいやされた人を取り囲んで、驚き、興味の目で見ていました。
 するとペテロは、この奇跡は自分の力や信仰深さなどでなく。ただ、あの十字架につけられて命を捨てられたイエスの名によるのである。
 このお方は、エルサレムのユダヤ人たちによって十字架につけられたが、父なる神さまによってよみがえらされ、信じて、悔い改める者の罪を赦してくださるとの福音を語りました。
 そして、ペンテコステ前のペテロではなく、謙遜に、「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」と語っています。
 この時のペテロは、正にナザレのイエス・キリストだけをもって足れりとしていたのです。

礼拝宣教要旨    2015年 9月13日(日)   福田勝敏牧師

主題「聖霊なる神の降臨」    聖書:使徒の働き2:1~21
 
主イエスが十字架にかかられる前に「わたしは父にお願いします。そうすれば、もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です」(ヨハ14:16,17)と約束されました。
 そして、復活された主が天にお帰りになって10日目、復活後50日目(五旬節・ペンテコステ)に、この助け主がおいでになったのです。

1、炎のような舌
 この日に集まってお祈りをしていた人々は、弟子たち、イエスの母や兄弟たち、イエスに従っていた女たちで120名ほどでした。
 彼らは、イエスの「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」というご命令を守ってエルサレムの街の中にあった家で、弟子たちはその屋上の間(二階の上の屋上に囲いを設けた部屋)で心を合わせて祈っていました。
 そこに、「突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」と記されています。実に不思議な出来事です。さらに、そこにいた弟子たちがみな聖霊に満たされて、他国のことばで話し出したのです。
 炎のような舌が、聖霊の働きであって、聖霊が弟子たちに語らせていたのです。

2、ペテロの大説教
 エルサレムの人々とペンテコステの祭りに来ていた人々は、弟子たちが外国の言葉で語っているのを聞いて、ある人は「私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは」と驚きました。しかしある人々は「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいました。
 その時ペテロが立ち上り、「これはヨエルの聖霊降臨の預言が成就したことです。」と語りました。さらに、ダビデの詩篇16:8~11の言葉を引用して、イエス・キリストの十字架と復活のメッセージを語り、この「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしている聖霊をお注ぎになったのです」と語ったのです。

3、三千人の新しい仲間
 ペテロのメッセージを聞いた多くの人々は、心を射され「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言い、ペテロの「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいそうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」という言葉を信じて、悔い改め、バプテスマを受けた人々が三千人ほどあったとあります。
 そしてこのようにしてキリスト教会が生まれ「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださっ」て、初代キリスト教会が成長していったのです。
 羽ノ浦キリスト教会も、教会員一人一人が聖霊に満たされて心をひとつにして教会に集まって祈り、礼拝を捧げ、神を賛美し、周囲の方々に好意を持たれるとき、主は救われる人々を仲間に加えてくださるのです。

礼拝宣教要旨    2015年 9月 6日(日)  福田勝敏牧師

主題「イエスの昇天」      聖書:使徒の働き1:1~14
 
使徒の働きには、著者が誰であるか記されていません。しかし、ルカの福音書1章1~5と本日の箇所を見るとその著者がルカであったことが分かります。このルカは、初代教会誕生の頃、常にパウロと行動を共にしていた人で、ルカの福音書と使徒の働きを書いたと言われています。
 本書は、使徒の働きですが字句通りですと使徒たちの働き、業績の書ということになりますが、2章において、聖霊なる神様がイエス・キリストの代わりの助け主としてこの地上においでくださった様子が描かれ、その後の弟子たちの姿から、本書は「聖霊の働きの書、聖霊行伝」と呼ばれるべき書であると言えます。つまり、目に見えない主キリストでもある聖霊なる神がいかに使徒たちを通して働かれたかが記されている所なのです。

1、キリストの命令
 イエス・キリストは復活されてから、四十日に渡って度々そのお姿を弟子たちに現してこられましたが、いよいよ天にお帰りになる前に、弟子たちに対して大切な事を命じられました。
 それは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」でした。この約束とは、弟子たちが聖霊のバプテスマを受ける、ということです。

2、聖霊のバプテスマの結果
 それでも弟子たちは、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」との質問をしています。彼らには、目に見える形でイスラエル国家がローマを滅ぼし、世界の頂点に立つことが神の約束であり、神の祝福だと思っていたのです。
 それに対して、イエスは「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われたのです。
 イエスが弟子たちに、そして現代のわたしたちクリスチャンに求めておられることは、クリスチャン一人一人が聖霊に満たされて、キリストの証人になることなのです。そして、そのことが世界の平和となり、祖国日本の平和ともなるのです。決して権力や武力で本当の平和を勝ち取ることはできません。聖霊なる神が、本当の平和を実現してくださるのです。そのことを心に覚えて今回のチャペルコンサートにもご家族、友人、知人をお誘いしましょう。

3、イエスの昇天と約束
 イエスが聖霊なる神を待つようにお命じになられた後、弟子たちが見ている目の前で天に上げられ、「雲に包まれて見えなくなられた」のです。そして、天の御使いが現れて、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」と語られました。つまり、イエス・キリストはまた再びこの地上に来られるという約束がされたのです。これが「再臨の約束」です。御使いは「あなたがたが見たときと同じ有様で」と語っています。単なる教えではなく、また夢、幻でもなく、当時の弟子たちは現実にイエス・キリストの十字架と復活、そして昇天をその目で見たために迫害され、投獄され、傷つけられ、多くのクリスチャンが殺されても、昇天されたキリストは約束通り再臨されて、全てを裁き、全てを新しくしてくださると信じ、命をかけて全世界にこの福音を伝えたのです。
 私たちも、私のために死んで罪を赦し、よみがえって永遠の命の保証となってくださったイエス・キリストを本気で伝える者としていただきましょう。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。